番組審議会

第113回 放送番組審議会議事録

1. 開催日時:平成18年5月25日(木) 午後3時
2. 課題:フリートーク「今、テレビに求められているものは何か」
3. 記事の概要:
・今テレビに求められているものとしては、制作側の視聴者への誠意とモラル、視聴者の制作側への敬意と感謝、また、日本の問題点を指摘して責めるだけではなく、解決を促すきっかけや希望を私はテレビに求めている。ドラマについては、韓国ドラマブームも一段落して、今から日本のドラマの再生は始まるのであろう。続けて見たい、再放送が見たいと思える、俳優頼みでない、脚本のすばらしいドラマに今年はたくさん出会いたい。吉本の芸人さんもがんばっている(がんばりすぎ?)が、落語家さんの話芸は日本の誇りである。落語家さんのテレビ進出を期待する。

・最近、見ていると非常に疲れるテレビ番組が多い。それでもニュースだけは見るようにしている。テレビを見て疲れるのは齢をとったせいでもあるとは思っているが、その理由を考えて見ると、一つにはあまりにも馬鹿げたお笑い番組が多すぎることがあると思う。お笑い番組は本来誰もが愉快に見ることができる番組のはずだが、本当にこれがお笑い番組なのかと思うようなものがあるし、如何わしい格好をして出てきたり、我々の年代の者には受け容れ難いものがある。もちろんいい番組もあるが、もう少し中身のあるお笑い番組は増えないものかと思う。人気タレントの中には、酷い言葉遣いをする人がいて、斯く言う私自身も方言丸出しで上品な言葉を話しているとは思っていないが、そういう私でも耳を疑うような恐ろしい言葉を遣っていることがある。やはり子供が真似をする虞があり、そういう教育的配慮も多少は必要だと思う。実は私の家の近所の若いお嫁さんが「ああそうなんだ」という奇妙な言い方をするのだが、一体どこから出てきた言葉遣いなのかと思っていたら、テレビ番組でそういう言葉遣いをしている番組があった。そういう一種の流行語も出ている。言葉については、やはり慎重であっていただきたいものだ。また、私は夜11時頃からラジオのNHK第一放送ほ聴くようにしていて、就寝時も流しっぱなしにして寝ているが、なかなか良い番組があり、感心して聞いている。民放のテレビ番組でも、知識を広め、人間として向上できるもの、心のこもったものが出て欲しいものだと思う。テレビ番組の質を向上していただきたいものだ。

・馬鹿番組は確かに多い。賢い人が集まっているはずなのに、どうしてあんな馬鹿なことになるのかと思う。また、真似番組も多い。どこかの局がやって受けると、すぐ真似をする。

・今、公立の小中学校は土曜日の午前中に授業がないのだが、土曜日に家に居る子供が見る番組というのは、どういうものだろうと思って、試しに先日NHKの教育テレビジョンを見てみた。すると、「親と子のテレビスクール」という生番組を放送していて、授業がない時に有意義に見られる番組かも知れないと思って見ていると、そのときは偶々ピアニストの体験談だったが、将来の夢につながり参考となるような、しかも、親と子が一緒になって考えながら、共に時間を過ごすのにうってつけの番組だった。そう感じたときにふと思ったのは、いわゆる「子供に見せたくない番組」ランキングのことで、テレビ朝日制作の「ロンドンハーツ」は3年連続でトップになっているが、そういう番組を内容もほとんど改めることなくそのまま放送し続けるというのは、改善する気持ちがないのか、何かの理由で「みせたくない番組」の連続首位を狙っているのか、何かを訴えたくて敢えてそのまま放送を続けているのか、あるいはそもそも視聴ターゲットとして子供のことを考えていないのか、など理由をいろいろ考えてみた。ロンドンブーツが芸といえるようなことをしているのを見たことがないし、お笑いでも、芸のレベルの高い人は、話のテンポの作り方とか、間の取り方とか見ごたえがあるが、およそ芸とは言い難い馬鹿げたことをやって、いじめを助長するなどの批判まで受けながら、3年もの間そのまま放送し続けているということの意図が解らない。「子供に見せたくない番組」ランキングでトップにランクされることを受けて、何かを変える、或いは逆にそのままでいくというような気持ちが有るのか無いのか、是非聞いてみたいものだと思う。先日、白いんげん豆ダイエット騒動があった。私は、その番組は見ていないし、白いんげん豆ダイエットをするつもりもないが、番組を見て被害にあった人の話によると、番組の中で始めから「魔法の白い粉」という言葉が何度も繰り返して使われ、ずっと引っ張られたようだ。そして、散々引っ張られた挙句、「魔法の白い粉の正体はこれです」とやられて、後の注意事項をよく見ないで、買い物に飛び出し、その結果が周知のような症状に襲われたそうだ。作る側の手法として、物の正体を明かさずに視聴者の期待を膨らませて引っ張るというやり方は特に珍しいものではなく、「…はCMの後で」というようなCM入りのやり方も、その一種だと思う。しかし、やはり作るときには、本当に大切なことは、まず先に出し、何度も出して強調するべきだと思う。秋田県の男児殺害事件の報道では、5月18日夕方のANNニュースで、レポーターの女性が被害男児の名前を間違えたり、レポーターがスタッフにCM入りのタイミングを聞く声が入っていたりするなど、事件の扱い方として非常に不謹慎な部分があった。この人たちはニュースというものに対して、この程度の意識しか持っていないのかと思い、憤りを感じた。eatでも現場でレポートをする方は、十分注意していただきたいと思う。放送と通信の融合については、とても大きなテーマで、どんなことをお話すればいいのか分からないが、電気製品の扱いに不得手な人にも分かるような融合の在り方を考えていただきたいと思う。

・今のテレビに求められることとして、子供をもっと大切に考えて番組作りをして欲しい、或いは、家族で見られる番組を作って欲しいというようなご指摘だと思う。放送と通信が融合していくと、これらはむしろバラバラになっていく可能性が大きいので、そこをどう考えるかというところがある。また、一つ考えておかなくてはならないこととして、子供は概して「ためになる番組」や「真面目な番組」を見たがらない。むしろ、ふざけた番組、ちょっと危ないような番組を見たがるものだということがある。

・テレビの今と昔を比べて、どこがどう違うのか考えてみたのだが、昔はホームドラマが多く、ホームドラマの中に自分の人生を託してみたり、自分の夢を思い描いたり、そういうことがあった。そういうドラマを懐かしく思う。今は、テレビの主役は、バラエティ番組で、次いで旅番組やワイドショーが目立つ。また、女性アナウンサーのタレント化というか、局の側が女性アナウンサーにタレント性を要求しているのかも知れないが、今や女性アナウンサーはタレントなのかアナウンサーなのか区別がつかなくなってしまっている。そういう状況の中で、いま健全性を保っているなと思うのは、日曜午前の「題名のない音楽会」という番組で、これなどは音楽の専門家にも、素人にもわかりやすい、息の長い番組だ。ああいう番組をもっと放送して欲しい。あの番組ももっと枠を拡げて、1時間番組にしてはどうか。十分1時間持つと思う。また、ドラマにしてもバラエティ番組にしても、言葉の乱れが激しい。例えば、コンビニエンスストアに行くと、「120円ちょうどからお預かりします」などという。どこからそんな言葉遣いが生まれたのか。「これでよろしかったでしょうか」というような奇妙な過去形の言い方。過去、現在、未来という時制が乱れている。これらは、やはりバラエティ番組やドラマの中で言葉を大切に扱っていないことにも一因がある。日本語をもっと大切にして欲しいと思う。日本語の美しさを愛し、大切にする心が失われているように思う。また、テレビ局に入るには、東京の一流大学を出て、難しい試験を受けて入社するというようなことを聞くが、そこまで賢い人たちが、よくこんな馬鹿なことを考えるものだと思うことが多々ある。そして、テレビを一番よく見ているのは、どんな年代のどんな人たちなのかと思うことがある。ある大学で学園祭のときに、レーザーラモン HG(ハードゲイ)を呼んだ。その時に学生の親から「どうしてそんな下品な人を呼んだのか」という声が上ったそうだ。その時にある教授がカチンときて「ハードゲイ」を「高度な芸術」という意味なのだと強弁したそうだ。その教授は英文学の先生らしいが、テレビでレーザーラモンHGを一回でも見たことがあれば、そういう馬鹿なことをいうはずがなく、そういう賢い人はテレビを見ないのだなと思った。テレビ局の仕事に携わっている人には、日本語の美しさを継承していきたいという気持ちを持ってほしいものだと思う。また、昔はNHKの番組と民放の番組には歴然とした大きな違いがあったように思う。真面目で難しい番組を放送するのがNHK、少しやわらかい番組を放送するのが民放だった。しかし、今はそのような違いは殆ど感じない。そうなると私たちが月々支払っている受信料は、一体何なのかと思う。本当に支払う価値があるのかという疑問を感じることもある。

・本来アナウンサーというのは日本語のプロフェッショナルであるはずだ。そのアナウンサーが入社前後は熱心に真面目にやっているのかも知れないが、どんどん崩れていっているような気がする。また、日本語を正しく使うためには、日常的に訓練をする必要がある。そういう専門的な訓練を平素から積んで欲しいものだと思う。かくし芸として、いろいろなことができるというのは大いに結構だと思うが、今は、アナウンサーがこき使われて、かくし芸のほうが表に出てきているように見える。

・テレビに求められているものというテーマだが、ついつい新聞に求められているものというテーマに置き換えて考えてしまう。朝日新聞社では、今、ジャーナリズムの原点に帰ろうということで、全社を挙げて取り組んでいる。松山総局には2台のテレビがあって、少し大きい方でNHK、小さい方でeatを24時間流したままにしていたが、どちらも古いテレビであるため、特にeatを流しているほうのテレビのブラウン管がどんどん老化して、よく見えなくなっている。このため松山総局ではNHKだけが24時間流れている。これは、テレビの速報性に対して、我々が対応する機会を逃してはならないということによるもので、ニュース速報、臨時ニュースなどの情報を入手するためだ。テレビと新聞は似たところと相互に補完しているところ、全然違うところがあるが、似ているということで言えば、娯楽性やジャーナリズムを担っているところがあるが、なかなか「テレビかくあるべし」といったところでテレビがいうことを聞くわけではない。新聞もそうだが「国民とともに起たん」と言った、あのわが社の再建の精神が、読者から遊離して新聞報道はありえないし、テレビもやはり視聴者の呼応、反応の中で成立できるのであろうということが前提としてあれば、なかなか「テレビはこうあるべきだ」というような態度で論議していくと、行き詰るのではないかと思う。つまり、その時代のあらわれでもあるし、社会をうまく映し出しているものがテレビではないかと思って、私は24時間流しっぱなしのテレビの中で、NHKの朝6時30分ごろからのニュースと朝の連続テレビ小説は必ず見るが、昼のニュースと19時のニュースとできるだけ報道ステーションを見る。そういう中で、今昔という話の中で、私にとってのテレビというと、子供のころはマンガであったり、アニメであったり、ドラマであったりということだが、今はニュースでしかない。子供の頃は新聞のテレビ欄を見て、どの番組を見ようと決めていたと思うが、今はもうテレビ欄が非常に広くなっているし、テレビ欄をいつの間にか見なくなっている。そして、あまりテレビの番組に興味がなくなってきた。そして、見たいテレビはノートを置いてメモを取りながら見るということを心がけているが、なかなかそういう機会が最近は少なくなってきたと思う。私は1年間、他のテレビ局の報道と一部の番組の制作もやってきたなかで、テレビは非常に感性に訴える、いい映像があったらそれを使えるというような、必ず映像、映像で、そうしている中でも作り手の、こういうものを作りたいというようなものがないと駄目だということになると、特に作っていく自分は何を作りたいのだというような、ちょっと生意気なことを考えるようになって、それがうまく伝わった、ごく一部の反応が返って来たりすると達成感や喜びになってくる。今、新聞の中でも農作物と同じように記者の見える記事ということが言われている。どのような記者が、この記事を書いているのだろうかということは、やはり読者に示さなければならないということが強く言われるようになって、署名記事とかが増えて、今度、朝日新聞の大型レポートは記者の顔写真を載せようということで、愛媛版で実験的にやるが、前回の審議会で少しそういう話をしたが、出来ればテレビでも力を入れたニュース、これといって訴えたいニュースや番組は、どんなディレクターのものかとか、どんなアナウンサーが担当したかという、その人を露出してもいいのではないか。どのような人が作っているのだろう、その人は将来どういうことを考えていて、どういう風にテレビの世界を担っていくのだろうとか、ある意味では視聴者にファンがつくというか、そういう読者、視聴者と記者、ライター、ディレクター、アナウンサー、そういう人たちの相互作用のなかであったらいいなと、これは私の個人的な意見なのかも知れないが、あまり何故テレビに求められるものというテーマは考えにくいかというと、新聞に求められているものの方が僕にとっては99%大切なことであって、テレビはすごく元気になってデジタルの時代とか双方向とか文字情報とか、それが印刷されていくということになると、新聞の影響力がまたまた小さくなっていくような気がして、そういう危機感というか自分の存在価値というか、存在意義のようなものまで薄れていくものに関わっているテーマなので、非常にまとまりがないが、あまりまとめたくないというか、結論を出すと非常に恐ろしいものになる。なるような気がして、本当にとりとめのない話なのだが、ただ意図せず本当にテレビというのは見ると影響力が大きいので、子供の話とか教育的効果であるとか、NHKがなくなったら、まともな番組をやっているところはどれだけあるのかというような身近な友人たちの意見などを聴くと、いくらかベクトルも真面目なテーマというか、真面目ということに少し力点を置かなければならない時代ではないかと思う。

・先にテレビのアナウンサーは日本語のプロフェッショナルであるべきだという意見があったが、やはりテレビ番組を作る人、新聞記事を書く人は、中身のプロフェッショナルであり、視聴者の要望に迎合する必要は無く、それとは別な独自のものがあるのだということが言える。しかし、確かにそれはそうかも知れないが、そういうプロフェッショナルとしての誇りがあるのなら、プロフェッショナルらしく、しっかりしてもらわなければならないという気持ちが視聴者としてはある。

・今、アナウンサーの話題になったが、最近は一日に一つか二つは必ずおかしな言葉遣いが見られる。聞くに堪えないこともある。例えば、先日ある局の朝の中継で、金沢からアナウンサーが「千枚田」のレポートをしていたが、「千枚以上の田があるので千枚田と呼ばれています」とやった。私はびっくりした。それは、リハーサルでもそう言ったはずだ。ディレクターもモニターを通して見聞きし、その上司も見ている。にもかかわらず、そういう言い方がすっと通ってしまっている。現場のスタッフも誰もおかしいことに気がつかない。千枚以上の田があるというなら、じゃあ一体実際には何枚の田があるのかと聞きたいぐらいだ。いうまでもなく「千枚田」というときの「千」という数字は、白髪三千丈というのと同じで、数が多いことの象徴的表現として古来使われているのであり、実際の数字とは何の関係もない。その類の間違いはNHK、民放を問わず一日に必ず一つ以上ある。それを毎日書き留めて、解説を書き綴っていけば間違いなく立派な本ができる。私も最初はメモしておこうと思ったぐらいだ、馬鹿馬鹿しいので止めたが。アナウンサーですらそうなっているというのは、NHKでも60年代後半から、放送には現場の人が出るということになり、記者、カメラマン、プロデューサー、外部のレポーターなどがキャスターなどの形で、どんどん出てくるようになった。そのせいで言葉についての緻密さというようなものが問われなくなり始めた。もっと言えば、例えば声に関しても、昔はマイクの拾い易い声の人でないと採用されなかった。しかし、今は機器の発達によって、どんな声でもマイクが拾うようになったので、そういうことは全くなくなった。また、作り声のようなものは出さない方がいい。むしろ地の声を使ったほうがいいとされるようになった。そういう機器の発達、放送に携わる人の変化により、正しい日本語の担い手というものが放送の世界にはなくなってしまった。もともと標準語というのは、明治30年代に成立したといわれている。そして、江戸時代までは青森の殿様と鹿児島の殿様が江戸城で話しをするときには通訳が居たが、明治時代になって外国と貿易をするようになって、日本語というのはこういうものだというものが必要になり標準語が求められるようになった、というのが表向きの理由だが、実は本当は軍事と関係がある。軍隊では命令が正しく迅速に伝わる必要がある。そのため標準的な言葉を普及させる必要があった。それで明治30年代に上田萬年という東京大学の教授が、東京の山の手で使われている言葉が、将来の標準語としての資格を持つだろうといって、その通りになった。実は江戸時代に、東京に地方の人が集まってきて、そこで使われ、皆が理解できる言葉だけが残った。それが標準語となったということだ。そして、大正時代からラジオが普及して、標準語と言われるものが教科書に取り上げられ、休息に標準語が普及した。では、今誰が正しい、美しい日本語を担うのかということになると、それは非常に曖昧になってきている。NHKでも訓練されていない現場の人が出てくるようになり、言葉の発音、発生はどんどん重視されなくなっている。だからこそ、地方でも言葉を大切にするようにしないと、誤った日本語がそのまま受け継がれていってしまうということがある。また、放送と通信の融合について言えば、新聞が地位を脅かされているというような意見があったが、そういうことは断じてない。むしろ、今や活字文化だけが最後まで残るのではないかと思われるような時代になっている。放送と通信の融合については、一般の人には事情がよく飲み込めないままに、風雲急を告げるような状況になっている。IT産業が放送を追い詰めている。放送番組を有料でインターネットで流すような時代になった。しかし、これはどういうことを意味するかというと、つい最近私はアカデミー賞候補になっている「グッドナイト・アンド・グッドラック」という映画を見た。これは1950年代に起きたマッカーシー上院議員の赤狩り旋風に、敢然と立ち向かったCBSのニュースキャスター、エド・マーロウの話である。この話は今の日本の放送について示唆に富んでいると思った。というのは、IT産業にはジャーナリズムの歴史は全くない。ジャーナリズムの精神が全く根付いていない。そして、放送は今、それにすり寄っている。そういう風に見える。インターネットのニュースのように細切れにニュースを流すような状態になると、ジャーナリズムとしての存在感は非常に薄くなる。ITが放送を乗っ取るということ、それは大変怖いことなのだ。また、テレビの視聴スタイルがどんどん変わってきた。一つはテレビ画面の大型化により劇場化している。他方でパソコンでテレビを見るというような形が増えてきて、皆で一つのテレビを囲んで見るというようなスタイルが崩れてきた。劇場型の視聴と一人一人の個々別々の視聴という相反することが同時に起きている。それを象徴しているのがBS放送である。私はBSにはある種の期待感を持っていたが、あれは駄目だった。BSには、劇場型の番組である映画、スポーツの他には、クイズかお買い物か、そのような程度のものしかない。そして根本的問題として基本的に地方発の番組は流れないということがある。地方というのは大切であり、私たちの社会は地方によって成り立っている。ところが、その大切な地方というものが登場せず、上から押し付けられるものを地方の人が受け取る一方という時代になりつつある。それを放送と通信の融合ということから言えば、地方がないがしろにされるということ、もう一つは、ジャーナリズムの喪失ということになる。この二つは非常に重大な問題で、放送に求められているものが50年前とは変わってしまっている。ジャーナリズムというものが変化しつつある。マスコミとジャーナリズムとは違うものだということに思いを致す必要がある。「マスコミというのは世論に阿るものである」というのは毎日新聞の主筆になり、後に NHKの会長になった阿部真之助がインタビューの中で言った言葉だ。私はそれを聞いて、ジャーナリズムというのは世論に阿らないものなのだということに気づいた。先に述べた映画のパンフレットの見開きに1958年の全米報道番組制作者協会の声明が出ているが、それが大変素晴らしい。一部読むと「もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、もともと何の価値もない。テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。だが、それはあくまでも使い手の自覚しだいだ。そうでなければ、テレビはメカの詰まった ”ただの箱”にすぎない」。正に今、放送と通信の融合した結果、メカの詰まったただの箱として存在するのかといういうことが問われている。しかし、国民はほとんど問題の所在に気づいていない、いまどういう問題が進行しているのかということを。将来、地方の情報が発信できなくなるということだって起こりうる。ローカル局というのは、地方から全国へ、全世界へ情報を発信するものなのだ、受けるだけではなくて。そのためには、どうしなければならないのかということを是非問題提起していただきたい。皆さんもあの「グッドナイト・アンド・グッドラック」という映画を一度ご覧いただきたい。映画を見て、私は、ああ 50年前にこんなことがあったのかと思い、久々に興奮した。当時50%を超える支持率だったマッカーシーに立ち向かうというのは本当に背水の陣だ。実際、過去に共産主義者と手を結んだなどというニセ情報を流されたりもした。しかし、それでも屈しなかった。そういうジャーナリズムの精神の必要性は、合衆国だろうが日本だろうが、東京だろうが地方だろうが変わりない。地方でもそういう精神が必要だ。

・正にその通りだと思う。先ほどからの話の流れでいうと、放送は日本語の技術のプロフェッショナルであると同時に、番組の中身のプロフェッショナルでなければならない。これがジャーナリズムということに繋がる。インターネットというのは、誰もが匿名で安価に情報を流すことができる、いわばアマチュアの世界である。それに対して、新聞やテレビはお金をもらって情報を流す。プロフェッショナルなのだということを主張するためには、中身に芯が通っていないといけないということだと思う。ジャーナリズムという言葉の「ジャーナル」というのは元々「新聞」という意味のようだが、「ジャーナル = 新聞」は、自分の主張をしっかり持たなくてはならない。合衆国では固有の主張を持たなければ、新聞として扱われない。それは新聞だけのことではなく、テレビもジャーナリズムの担い手であり、プロフェッショナルであるというからには、単に視聴者に迎合していてはいけない。視聴者に迎合するから、馬鹿番組、真似番組ばかりが出てくるのだ。

・放送と通信の融合ということについて言えば、まず放送と通信は別物なのかということから考えて見た。そして、物理的に電波を使うのか、電線等を使うのかという違いはあるが、放送と通信は本質的に別物だとは私は思わない。ただ、多少ビジネスの世界に身を置いたことのある者から見ると、民放が始まって55年ほどになるようだが、こんなに保護されている業界は珍しい。免許事業であることに加え、新規参入しようとすると莫大な費用がかかり、誰でも参入できるわけではない。特にキー局について言えば、僅か数局しかなく、独占状態というか、非常に守りの堅い業界だ。ただ、50年も経つと、どんな世界でも時代はがらっと変わる。いつまでも現状維持すべしという考え方に拘っていることは不可能であり、いつかは時代に応じて自分を変えていかなくてはならないときが必ずやってくる。特にインターネットの出現と普及は産業革命に匹敵する大変革だ。また、昨年来、ライブドアによるニッポン放送株の買占め騒動があったが、放送局免許を新たに独自に取得するということは不可能かも知れないが、放送事業者が株式市場に株式を公開していれば、株は誰でも買えるわけだ。そして、その会社の株の50%超を取得できれば、その会社を支配することができる。株式市場では合理的でないことはまず発生することはなく、あのような騒ぎが起きるというのは、やはりそれなりの理由がある。外部の人から見れば、放送業界というのはよほど儲かっており、内部留保も厚く、保護されている、魅力があるということだと思う。先日の新聞報道を見ても、民放キー局は莫大な儲けをあげている。今後は、今までどおりの在り方であらねばならないというような考え方に固執していては、厳しいのではないか。競争を避けようとする業界は政治力に頼ったりして、甘い汁を吸い続けようとするものだが、そういう業界は必ず衰退するというのは歴史の示すところだ。環境の変化を素直に受け止めるべきではないか。具体的には、インターネットを毛嫌いせず、インターネットの研究をして、むしろ打って出るぐらいの気持ち、自己改革の気持ちを持つべきだと思う。ブロードバンドの発達と普及により、インターネットで放送番組を見る環境は整っていて、進んだ技術が出現すれば、そちらに向かっていくことは不可避だ。放送業界は世の中の変化を認識して、自ら改革すべきだ。ジャーナリズムのないIT産業に乗っ取られると怖いというご意見もあったが、いかんせんIT産業にはコンテンツがない。放送局の持つソフトと制作ノウハウは最大の武器になるはずであり、例えて言えば、今までは出版社が出版も印刷も配送も全てやっていたものを、印刷は印刷会社に頼み、配送は運送会社にさせるというようなもので、一番大切な、何を作るか、放送するかというところは放送局の仕事として、生き延びていく途は十分あると思う。だから、ITを中心とする技術革新により世の中が変わりつつあるが、それに取り残されないようにすべきではないか。下手に悪あがきして、政治力に頼ったり、許認可制度にすがったりして抵抗するのではなく、むしろIT革命の中に自ら進んで入っていくようにすべきではないかと思う。また、今のテレビ番組の在り方について、なっていない、怪しからんというご意見については、確かに御尤もだと思う。しかし、自由社会の代償として仕方がない部分はあると思う。ふざけたやつ、とんでもないやつが出てきて眉を顰められるようなことが起きるのは、ある程度は仕方が無いと思う。そういう輩を眉を顰めて批判するというのが、逆に社会が健全であることの証左だと思う。そういう意味では私は悲観はしていない。タレントがふざけたことをし、批判されるのは大いに結構。程度の問題はあるが、これを抹殺するならば、それは統制社会ということに他ならないと思う。

・テレビ局で仕事をしている人たちは、皆さん井の中の蛙ではないか。他所のことを余りにも知らない気がする。給料を沢山もらっておられるが、アナウンサーにせよ、他の方にせよ、自分の城を守ることに一生懸命で外の空気を入れようとしない。これは非常に重要なところだ。両面あるわけだ。自分の意見をしっかり持つということも大切だ。しかし、もう少し外の空気を入れたほうがよい。このままでは微温湯のゆで蛙になりそうな虞を感じる。ただ、給料もいい、今の快適な環境が続く限り、これを一朝一夕に変えるというのは非常に難しいと思う。

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