愛媛のニュース

NEW 2024年08月15日(木 ) 19:11

終戦から79年・98歳の元騎兵隊員の思い【愛媛】

第二次世界大戦中、馬に乗る騎兵隊として中国の戦地に赴いた男性が愛媛にいます。
今も戦争の絶えない世界を、どうみているのでしょうか。
【藤原茂さん】
「戦争に負けたというのを聞いて、万里の長城に向かって、1人涙を流していた、泣いとったことを思いますね」
そう話すのは、京都府出身で、今は松山市に暮らす藤原茂さん98歳。
戦火が激しさを増した1945年1月、藤原さんは旧日本軍・騎兵旅団の兵士として中国にいました。
【藤原茂さん】
「馬に乗って戦場の先頭まで行って、馬から降りて、歩兵と同じような戦闘ができる。乗馬じゃなく馬を降りて戦うのが、騎兵旅団なんですね」
中国で、車両ではなく、あえて馬が使われたのには理由があったそうです。
【藤原茂さん】
「当時の中国の道路というのはぬかるむんですよ。ちょっと雨が降ったら。それを戦車部隊だとかトラック部隊がいくけども、ぬかるみに往生しちゃうんです。しかし、馬だと目的地までさっさっさっ行くわけですよ。足が早いから」
藤原さんたち騎兵旅団に与えられた任務は…。
【藤原茂さん】
「中国に飛行場を作っていた、アメリカがね。なんのためかというと、内地を空襲するため」
飛行場があったのは、中国内陸部の老河口という街。
進撃を食い止めるため、旧日本軍はその飛行場を占拠しました。
その防衛が、藤原さんたちに与えられた任務でした。
【藤原茂さん】
「飛行場にドラム缶がいっぱい残っているんですよ。ドラム缶には全部ガソリンが入っている。そのガソリンめがけて敵がくるわけですよ。それでドラム缶に機銃掃射するわけだ」
部隊では死者も出ました。死は、隣り合わせでした。
その後、藤原さんは、別の部隊への配置換えなどを経て、万里の長城で終戦を迎えます。
19歳の時でした。
【藤原茂さん】
「敗戦は大変なショックだったですよ。典型的な軍国少年・青年で、そのために戦ったわけですから。その落胆も非常に多かったですしね」
戦争が終わり、中国軍から伝えられたのは…。
【藤原茂さん】
「学兵(少年兵)は速やかに日本に帰したいと、帰ったら『君らは勉強せえ』と、こういうたのでね、『ええ!?わしら返してもらえるんか』と、初めてそう思ったんです」
戦後すぐ、藤原さんは親戚のつてで松山へ移り住み、愛媛県の職員となりました。
松山市東野に思い出深い石碑があります。
これは「果樹同志会」結成の記念碑。
若い農家が団結して生産力を高めるために、藤原さんが発起人となって立ち上げました。
【藤原茂さん】
「ほとんどの果樹同志会員は、当時は、みな戦争に行って帰ってきた。団結して、組織の力を発揮しなきゃいかんというのは、部隊で訓練されてますから。敗戦国の日本を再興しなきゃいかんというのは、使命感として持ってるわけだ」
戦後の愛媛の農業は、志を持った農家たちにより、大きく発展。
特にミカンは、同志会ができたことで、東京や大阪にまとまった数を安定して出荷できるようになります。
これを追い風にミカン農家も増えていき、愛媛は戦前なしえなかった日本一の生産地となりました。
【藤原茂さん】
「戦後のミカンの生産は愛媛時代です。愛媛時代を作ってくれたのは同志会の力だと思っとりますね」
かつて、騎兵隊だった藤原さん。今もあの戦争を思い出す場所があります。
【藤原茂さん】
「立派ですな。懐かしい。馬が実にきれいな馬ですし、ただ、こんな格好で兵隊のときに乗ってたら、どやされましたね。姿勢がきちっとしなきゃいかん」
松山市にある「秋山兄弟生誕地」。
秋山好古は、明治時代、騎兵旅団を戦術に用いた軍人で、後の藤原さんの部隊にもつながります。
藤原さんが今、思うことは…。
【藤原茂さん】
「戦争ぐらい辛いものはない。厳しいこともない。酷いことですよ。ウクライナを見ても、イスラエルを見ても。とてもじゃないが、一般人が大変な犠牲を受けている。にも関わらずね、この馬鹿な戦争をやめる手がないと。どうして戦争がやまないのかと、いつも思いますね」